一昨日、東日本大震災の被災地、宮城県女川町で聴き上手ボランティアの研修の手伝いをしてきました。
聴き上手ボランティアというのは、いわゆる傾聴ボランティアで、一般の住民がボランティアとして他の住民の悩みに耳を傾け支援する活動をしている人たちです。
こうした活動が女川町で組織的に行われるようになったのは、東日本大震災で大きな被害にあった町の人たちのこころの健康を保つためには、精神的な不調に陥った人たちを支援するだけでは不十分で、町民みんながお互いに力を合わせて助け合うことが必要だと考えられたからです。
こうしたことに気づいたのは、町民を直接支援していた町の保健スタッフでした。
最初は、心身の不調を訴えた人たちを中心に支援をしていましたが、多くの被害が出ている状況では、町民全部が何かしら、こころや体の不調を抱えていました。
そのような状況を考えて、ボランティアの活動に期待することになったのです。
そうした提案をした保健スタッフは、はたしてどれだけの人がボランティアとして参加してくれるか予測できず、ボランティアのための研修会の当日まで気をもんだと言います。
ところが、研修会当日、参加した町民は予想を超える数でした。
そしてそれから、ボランティアの数は増えていって、今年もまた新たに参加する町民ボランティアのための研修会を開くことになったのです。
このような話を聴いて、私はレジリエンスについて考えました。
レジリエンスというのは、逆境を跳ね返しながら生き抜いていく力のことです。
そうした力が町にあって、それが復旧や復興への力になっていったのだと思います。
町のレジリエンスを引き出し活かせているということは、町民それぞれがレジリエンスを持っているということでもあります。
このボランティアの仕組みを率先して推し進めている保健スタッフの一人は子どもを津波で亡くしています。
そのことはたしかにつらい、とその人は言います。
しかし、その一方で「人は二度死ぬ」と考えて頑張っているのだとも言います。
最初の死は命を落としたとき、次はその人を知っている人がいなくなったときです。
その保健スタッフは、子どもが二度目の死を迎えないですむように懸命に生き、頑張っているのだと言っています。
このように考えることができる力こそがレジリエンスで、それを活かすことが町全体のレジリエンスにつながってきているのだと思いました。