こころトーク

2021.12.03

第323回 「こころに響いたベック先生の言葉」

アーロン・ベック先生の追悼文をいくつか書く機会をいただき、あらためてベック先生から教わったことを思い出しています。

少し前にも「肌で体験することが大事だ」というベック先生の言葉を紹介しましたが、「私も一人で始めたんだ」という言葉も、こころに響いたひとつです。

この言葉は、ベック先生に勧められて最初に翻訳した著作『認知療法:精神療法の新しい発展』(岩崎学術出版社)の解題でも紹介しています。

はじめてベック先生に会ったとき、先生は、認知行動療法が日本でどの程度知られているか尋ねました。

しかし、私がアメリカに留学した1985年には、少なくとも精神医学領域では、認知行動療法についてはまったくと言って良いほど知られていませんでした。

私は、躊躇しながら、正直にそのことを伝えました。

すると、ベック先生は、穏やかに「私も一人で始めたんだ」と穏やかにおっしゃいました。その言葉を聞いて、私は肩の力が抜ける心地よさを感じました。

それは、相手の心に寄り添いながら不安を希望に変える認知行動療法の素晴らしさに触れた瞬間でした。

認知行動療法がこれだけ発展した背景には、ベック先生が極めて科学的な視野を持っていたことに加えて、こうした人間的な温かさを備えていたからだと思っています。

その背景には、人と人とのつながりがこころの健康にとって大切だという理解があります。認知行動療法は、アメリカの精神医学の世界で20年以上評価されませんでしたが、その不遇時代に娘のジュディ・ベック先生に助けられたことをよく話していました。

まだ中学生だった娘に、認知行動療法の考えを一生懸命説明していて、ジュディは「なぜお父さんはこんなに一生懸命話しているのだろう」と不思議に思いながら聞いていたと言います。

しかし、そのときの「お父さん、面白いね」という娘の言葉がとても励みになったと、ベック先生は90歳を過ぎてからも懐かしそうに話していました。

認知行動療法のランダム化比較試験を始めたのも、当時チーフレジデントだったジョン・ラッシュ先生をはじめとする若手精神科医が背中を押したからです。

対話を通した治療を科学的に実証する自信が今ひとつ持てなかったベック先生に、一緒に研究を始めましょうと声をかけたのがラッシュ先生たち若手で、そこから認知行動療法の効果研究が始まりました。

考えてみれば、日本で認知行動療法の効果研究を始めることができたのも、私の後輩たちが私の背中を押して一緒に頑張ってくれたからです。

一人ぼっちのように思えても、あきらめないで関心のあることを続けていると仲間ができて、一人ではなくなるのです。

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